永遠の喜びのためにはアイデアの種を植えよう 江崎グリコ創業者の江崎利一より

江崎グリコ創業者の江崎利一にとって1919年から1920年にかけて、プライベートで多事多難な年となった。

母のタツと、妻のイマを亡くし、残された3人の子供の長男のの誠一が腸チフスにかかり、医師が見放すような危篤状態となったのである。

 

「どうせ治らないなら、なんでもやったら良い」と医師に許可を得て利一がすがるような思いで飲ませてみたのが牡蠣の煮汁を煮つめたエキスだった。

 

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<魔法のレシピ>

永遠の喜びのためにはアイデアの種を埋めよう

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◆この頃、利一はストレスを克服するためによく有明湾に魚釣りをしに行くようになっていた。

佐賀県の有明湾は、広島県の広島湾と宮城県の松島湾と並んで牡蠣の三大産地である。

有明湾には春になると、「牡蠣の干し身」をつくる小屋が立ち並ぶそこで漁師がとってきた牡蠣の殻をむいて、大がまに入れて煮込んでそれを天日で乾燥させて「牡蠣の干し身」の製品にするのである。

 

◆江崎利一は、薬業雑誌で「牡蠣は多量のグリコーゲンを含んだ優良食品である。」という記事が出ていたのを記憶していた。

製薬業界への進出に興味をもっていた利一はこの牡蠣の煮汁に目をつけたのである。

「あの牡蠣の煮汁は、そのまま捨てられてしまうが、もしかしたら大量のグリコーゲンを含んでいるのではないだろうか?」

そう思った利一は、牡蠣の煮汁をもらいうけて自宅で煮詰めてみた。

そしてその煮汁を九州大学に持参して、分析を依頼した。

 

◆利一の予想通り、煮汁には含有率36%~43%という非常に豊富なグリコーゲンが含まれていたのである。

またそれだけではなく、その煮汁には増血剤として効果が高いヘモグロビンの成分になる鉄分まで含まれていた。

江崎利一の長男の誠一の命を救ったのが、その牡蠣の煮汁のエキスだった。

 

◆1921年、江崎利一は再婚した妻のエキと子供3人を連れて大阪に移住した。

江崎利一が、グリコーゲンで製薬業ではなく、製菓業に進出することを決意したのは

「グリコーゲンを病氣の治療のためではなく、病氣の予防のために広めよう」と考えたからだった。

江崎利一はグリコーゲンを製品化のために様々な実験を繰り返したが飴菓子の中にグリコーゲンを混入させるのが、最も良い方法である。

というのが江崎利一のだした結論だった。

 

◆世の中に知られていない新製品の開発と、その普及はリスクをともなう。

江崎利一が、事業を完全に軌道に乗せるまでには、倒産寸前の危機を粘り強く2度までも乗り越え、さらに10年の時間を必要としたのであった。

 

「人間が想像できるものは、必ず実現できる」と言われています。

人間は想像力を使うことによって、それまでの人類の歴史で成し遂げてきた以上のものを達成してたのですね。

 

◆日本を代表する事業家に『勝ち組の共通項』を教えていただきました。

勝ち組の事業家の共通項の一つは、メモとペンを持ち歩きアイデアが閃いたときそれを書き出すこと。

そしてアイデアの中から事業が生まれることだということです。

永遠の喜びのためにはアイデアの種を埋めることが重要なのですね。

 

■豊かさを創る質問■

「毎日、ビジョンとそこまでのロードマップを鮮明に思い描いていますか?」

「メモ用紙とペンを持ち歩いていますか?」

「アイデアが閃いたら、すぐに書き留めていますか?」

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<魔法のレシピ>

■ メモ用紙とペンを持ち歩こう

■ アイデアが閃いたら、すぐに書き留めよう

■ 人間が想像できるものは、必ず実現できる

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<さくらのB級グルメ>★★★★

ラーメン天下一品に来ました。

 

天下一品のラーメンは、木村勉社長が屋台でラーメン屋を始めた時から常に考えつづけてきた

「お客様が来てくれる味って何やろう?」

この答えということです。

 

こってりしているけど、まろやかな天下一品ならではのスープが麺と絡まり美味しいですね。

友人と2人で、こってりを2杯注文して餃子とから揚げ、チャーハンがついてくるセットを二人でいただきました。

 

餃子もチャーハンも美味しいですね。

有難うございます。

 

■天下一品 誕生秘話■

天下一品の木村勉社長の原点は

「お客様が来てくれる味って何やろう?」

屋台でもそればかり考えていたそいうです。

 

◆大阪万博が開かれた翌年、昭和46年(1971年)、京都で一人の男がラーメンの屋台を引きはじめた。

現在、天下一品グループ4社を率いる木村勉社長、36歳の時である。

 

◆ゼロからのスタート◆

それまで15年間勤めていた会社が倒産。

持ち金3万7千円、拾い集めた廃材を板金職人の友人に組み立ててもらってのゼロからのスタートだった。

初日の売り上げは11杯。

当時の一般 サラリーマンなみの収入を得るには1日100杯を売り切らなければならない。

 

◆仕入れのための現金が底をつき、屋台の縄張りをめぐってのいやがらせが毎晩のように続く。

包帯を巻きながら、黙々と麺をさばく頭の中は、

「どうしたら、お客さんにもっと来てもらえるような味を作れるんやろ。」

という思いでいっぱいだった。

「これなら自分でもできるんとちがうか」とはじめた屋台のラーメンだったが、実際やってみるとたいへん奥が深かった。

 

◆秘伝のスープの誕生◆

屋台仲間のおじいさんから教わった基本のスープはどこの屋台でもある醤油味のスープ。

木村社長は思った「この味ではわざわざ来てもらえない」屋台を引きながら、いろんな材料で「これもアカン、あれもアカン」と毎日四苦八苦しながらやっと納得のいく味にたどり着く。

屋台を引きはじめてから4年目、天下一品秘伝のスープの誕生である。

「このコクは、何と何入れたから出るというもんでもないんです。

厳選した素材を長時間かけてじっくり煮込んだスープは、”こってり”と称されているものの、脂っぽさをまったく感じさせない。

むしろまろやかでコクのあるスープ。

 

◆「いい材料を豊富に使って、自分が美味しいと思ったら、人も美味しいと思ってくれる。」

あれから30余年、木村社長はあらためて言い切った。

 

■天下一品はこちらから

https://www.tenkaippin.co.jp/

     
  

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