多くの病院がなくなった、といわれる昭和恐慌の時代に開業し東京のタクシーの運転手が知らない人はいない!
といわれるほど患者に支持され大繁盛の病院となった塩谷医院の塩谷伸男さんの書籍『宇宙無限力の活用』を読みました。
塩谷さんは、ゴルフのエイジシュートを3回成し遂げ94歳でエイジシュートの世界記録も達成しています。
また96歳のときに300人以上の経営者の前で講演をしさらに「106歳まで生きるよ!」と、ご自身が宣言されたとおり106歳まで天寿を全うし大往生されています。
塩谷信男さんはいいます。
『事業だろうと、スポーツだろうが、健康だろうが、望みは全て叶いますよ!』
■豊かさを創る質問■
・あなたが、困っている課題は何ですか?
・あなたの課題は、何を学び成長する機会ですか?
・あなたは、何を信じますか?
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<魔法のレシピ>
思考は具象化する!
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◆塩谷伸男さんは、東大を卒業後、昭和6年(1931年)に東京の渋谷で内科を開業しました。
開業前に渋谷区の医師会長宅に挨拶にいった。
塩谷さん:「この度、ご当地に医院を開きますのでよろしくお願いします。」
医師会長:「何科ですか?」
塩谷さん:「内科です。」
◆医師会長:途端に手をふって!
「ダメです。患者がありません。いま渋谷は、いや東京は、医者が非常に不景氣で医師が困っています。とくに内科がいけません。渋谷の内科医は皆、収入は減って、貯金を下ろして食いつないでいるのですよ。
私は、内科医だったんですが、患者がないので「痔」の医者になりました。
そしたら患者が来るので、どうやら食べてゆけるようになりました。
内科は駄目だから、耳鼻科なら道玄坂に一軒患者がきている医院があります。」
◆塩谷さん:「いや私は、他にできませんから内科をやります。」
医師会長:「場所はどこですか?」
塩谷さん:「美竹町です。」
医師会長:「あ、駄目です。あそこは人が通りません。」
塩谷さん:「しかし、明日開業することにしていますから、あそこでやります。どうぞ宜しくお願いいたします。」
塩谷さんは、渋谷には知り合いもいないし、広告を出すための資金の貯えがなかった。
◆こういう条件で医院を開業したので患者がくるはずもない。さらに困った条件はもうひとつあった。
塩谷さんは裸一貫で、妻と娘、両親と三人の弟妹、合計で7人を背中に背負い、腰にぶらさげていた。
しかも3人の弟妹は学費がかかる最中だった。当時はたった一人の学費でも困る家庭が多かった時代である。
「何故、そんなに不景氣だったのか?」
◆2年前の1929年にアメリカのウォール街で発生した株価の大暴落による大恐慌が、たちまちヨーロッパに広がり、瞬く間に日本も巻き込まれてしまった。
平成の不況どころではなかった。平成6年の不況は失業率3%といわれているが、1931年当時は失業率30%だった。比較にならない!
当時は健康保険の制度がないので、医療費も全額自己負担の現金負担であった。
だから内科医の打撃がとくに大きかった。少々のことは薬店の売り薬で間に合わせたり、富山の置き薬ですませることが多かった。
塩谷さんが、当時、開業の挨拶に廻った病院はどこも履物は寂しいかぎりで一足もない医院も多かった。
◆こんな状況の中、塩谷さんは1931年5月5日に内科の病院を開業した。
開業した日、一人の患者も来なかった。次の日も、翌日もである。
これは誠に当然である。
この状況そ想像してみると、「さぞや塩谷さんは、氣が氣でない!」と想像されるでしょう。
ところが塩谷さんは全く平氣だったのです。
塩谷さんがまったく泰然として平氣なので、塩谷さんの奥さんも平氣でいられました。
◆それでは塩谷さんは、どうしてたのかというと!
全く患者が来ない診察室で、時々「こういうこと」をしていた。
椅子にかけて、静かに目をつぶり「患者さんは必ず来る。ドンドン来る」と確信をもって想念する。
そして「玄関には履物がいっぱいに並び、待合室には患者が溢れている」情景をイメージする。
よそから見たら、塩谷さんは「少しオツムがおかしくなったのでは?」と思われかねない姿である。
◆とうとう1週間に患者が一人も来なかったが、8日目に一人知人の紹介で患者が現れた。
その翌日に親戚の紹介で一人来た。
こんなふうにポツリ、ポツリと患者が来るようになった。
すると次第次第に数が増えてきた。
全部口コミである。
そしてその月の収支はトントンになったのである。
この時点で、すでにどの内科医院より患者数が多くなっていた。
開業2ヶ月後の7月には、所用で1週間休診したから、実働は3週間位だったのに、1ヶ月の収入が300円あった。
これは当時、大変な金額である。
当時の大学の新卒の給料は50円(東大出だけが60円)であったから新卒の6ヶ月分の収入があったのである。
◆患者は増える一方で、一年経った頃には、イメージしたとおり、玄関には履物がはみ出すほど並び、待合室には患者がいっぱいになった。
そこで止まらず、ついに待合室の隣にある10畳の日本間も待ち合い室にしてしまった。
ではその頃、他の病院はどうだったかというと相変わらず閑散としていた。景氣はまだ回復していなかったのである。
冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行 (日経ビジネス人文庫)/ジム・ロジャーズ
¥800
◆ユーロを始めとする世界経済の動向や日本国債の行方などについてよく耳にするようになりました。
書籍『娘に贈る12の言葉』の著者 ジム ロジャーズは、投資の世界で知らない人がいないぐらい有名な投資家です。
- 1973年にジョージ・ソロスとともに立ち上げたクォンタム・ファンドは、10年間に3365%という驚異的なリターンを得て成功をおさめました。
- 1980年、彼は37歳のとき仕事を引退し、1994年にBMWのバイクでの1回目の世界一周を果たします。
- 1998年に商品先物市場であるロジャーズ国際コモディティ指数を創設し、2003年には改造ベンツでの2度目の世界一周を果たします。
人生と投資で成功するために 娘に贈る12の言葉/ジム ロジャーズ
¥1,260
◆ジムロジャーズは書籍『娘に贈る12の言葉』に著しています。
愛する娘よ
人生と投資で成功するために、君に伝えておきたいことがある!
君が大きくなったとき、私の言葉を思い出してほしい。
君の父は、お金を稼ぐために、労力を惜しまず、多くのことを学んできた結果、幸運にも三七歳という年齢で引退することができた投資家だ。
その経験の中で得られたものを君に伝えて於きたい。
1 他者に流されてはいけない
2 大好きなことにすべての情熱を注ぎなさい
3 常識はそれほど常識ではない
4 世界を自分で見ておいで
5 哲学を、つまり「考える」ということを学びなさい
6 中国の時代 中国語を身につけてほしい
7 歴史を勉強しなさい
8 汝自らを知ること
9 変化をとらえ、そして受け入れなさい
10 未来を見つめなさい
11 大衆に逆らいなさい
12 幸運の女神は努力を続けたものに微笑む
◆大ベストセラー作家で、帯広で大人氣の『いのうえ歯科医院』を経営されている、井上裕之先生はいいます。
『学んで、解決できない問題はない!』
やはり日本一の大商人である、斎藤一人さんが仰られるとおり
『困ったことは起らない!困ったときは学ぶ時!』
『成功者とは、成長しつづけている成長者』
なのですね。
※お薦め書籍『宇宙無限力の活用』はこちら
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<魔法のレシピ>
■ 困ったことは起らない!困ったときは学ぶ時!
斎藤一人さん
■ 学んで解決できない問題はない!
井上 裕之先生
■ 「成功者」とは『成長しつづけている成長者』である!
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<さくらのB級グルメ>★★★★★ ★★★
上野の大昌園で上カルビ弁当のランチをいただきました。
大昌園では、長い歴史に培われた韓国の食文化を大切にしながら日本人の繊細な味覚に合った味づくりを心がけているということで柔らかい上カルビがとても美味しいです。
ジューシーで脂がのった上カルビは口の中でとろけます。
ナムルやキムチ、スープのお味もよくてさすが大昌園です。
上野の大昌園はスタッフのサービスもテキパキと氣持ちよく愉しいお時間をいただきました。\(^・^*)(*^・^)/
ありがとうございますヾ(●⌒∇⌒●)ノ
■上野の大昌園はこちら!
https://taishoen.co.jp/
ご馳走さまです。