ラストエンペラー ディレクターズ・カット (初回生産限定版) [DVD]/ジョン・ローン,ピーター・オトゥール,ジョアン・チェン
¥3,990
映画『ラストエンペラー』を観ました。
清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。
映画『ラストエンペラー』は、溥儀の自伝である『わが半生』を原作としてベルナルド・ベルトルッチが監督、脚本を兼任した。
西太后による溥儀に対する清朝皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、退位しソ連軍に抑留された後、文化大革命のさなかに一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生が描かれています。
■豊かさを創る質問■
・あなたは、英雄になりますか? それとも戦犯になりますか?
・あなたは、人生にはっきりしたビジョンをもちつづけていますか?
・あなたは、楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に行動していますか?
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<魔法のレシピ>
人生にはっきりしたビジョンをもちつづけよう!
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ここからはDVD『ラストエンペラー』のあらすじになります。
ネタバレがありますが、より深く内容をご理解されたい方にはお薦めです。
◆1950年。第二次世界大戦の終結による満州国の崩壊と国共内戦の終結により、共産主義国である中華人民共和国の一都市となったハルピン駅の構内。
5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ、中華人民共和国に送還された「戦犯」達がごった返す中で、列から外れた1人の男が洗面所で自殺を試みる。
男は異変に気が付いた監視人の手により危うく一命を取り留めるものの、薄れ行く意識の中で幼い日々の頃を思い出していた。
この男こそ清朝最後の皇帝にして満州国の皇帝「ラスト・エンペラー」と呼ばれた愛新覚羅溥儀その人であった。
◆様ざまな過去が彼の脳裏をよぎった
まだ何もわからぬ幼少(リチャード・ヴゥ)の頃、光緒帝は帰らぬ人となり、実質的支配者だった西太后(リサ・ルー)は、溥儀を紫禁城に迎え、皇帝にと考える。
紫禁城での生活は、外へ出ることは禁じられ、心の支えは乳母(イエード・ゴー)だけだった。
7年後、溥儀(タイジャ・ツゥウ)は、中国全土に革命の嵐が吹き荒れる中で、孤独だった。
そんな頃、家庭教師としてやって来たレジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)から数学やテニスなど西洋の文化を学ぶ。
◆やがて15歳になった溥儀(ワン・タオ)は17歳の婉容(ジョアン・チェン)を皇后に、12歳の文繍を第二の妃に迎えた。
溥儀は弁髪を切り、革命をしたいといいだす。
前の皇帝は、革命をしようとして殺された。どうなるかやってみたい。
溥儀は『逃げるのではなく、統治したい』と言い出す。
1924年、中華民国の軍人である馮玉祥のクーデターで、溥儀は紫禁城を追われジョンストンが、婉容、文繍
(ウー・ジュン・メイ)女官らと共に英国大使館に保護することになる。
◆一方、戦犯管理所センターでは、罪の告白が続く。
溥儀は、日本の甘粕大尉(坂本龍一)との日々を思い出していた。
天津の租界地でプレイボーイの生活を楽しんでいるころ、蒋介石率いる国民党が上海を攻略。
溥儀の身を案じた甘粕は、日本公使館へ逃亡するように指示する。
民主主義に日覚めた文繍は離婚を申し出、溥儀の元を去り、かわりに日本のスパイであり婉容の従姉のイースタン・ジュエル(マギー・ハン)がやってきた。
◆やがて友人のジョンストンも帰国した
そしてジョンストンは英国に帰り、ロンドン大学で、本を執筆している。
その題名は『紫禁城のたそがれ』という題名だった。
溥儀は、日本軍に誘拐されて満州国へいった。というが中国の戦犯管理所センターはこれを疑っていた。
溥儀は、中国は溥儀を見捨てた。
蒋介石の国民軍は満州族の墓をあらした。
溥儀は、日本軍にすすめられ、皇帝になりたくて満州へいった。
◆1932年、全世界の非難にも関らず溥儀は“傀儡政府”である満州国の執権になり、2年後、皇帝となった。
溥儀は満州国は、日本国と対等の関係を望んだが、実際は日本国、甘粕が満州の実権を握り、溥儀はその言いなりとなっているだけであった。
溥儀が東京を訪問中、妻の婉容が運転手チャン(ケリー・ヒロユキ・タガワ)と誤ちを犯し身寵ってしまう。
チャンは射殺され、その浮気相手の子供が秘かに始末される。
・1937年、南京大虐殺。
・1945年、広島、長崎への原爆の投下
主要都市を制圧していた日本軍だったが
・1945年、ソ連軍が宣戦布告。
・同年、8月15日、日本は無条件降伏を宣言、日本の敗戦
◆玉音放送を聞きながら、甘粕はピストル自決を遂げ、日本へ脱出しようとした満州国皇帝の溥儀は、長春の空港でソ連軍の捕虜となった。
1959年、10年の収容所生活を経て、溥儀は特赦される。
一市民となった溥儀は、一転して生まれ変わった。
庭師になって北京で暮らしはじめた溥儀は、あの紫禁城を訪れる。
ここからはDVD『ラストエンペラー』をお楽しみください。
◆日本一のカリスママーケッターと言われた神田昌典氏の書籍『2022 これから10年活躍できる人の条件』PHPビジネス新書で、神田昌典氏は、ご自身が癌を克服した体験につづき、以下のように書かれています。
『歴史は70年周期で巡っている。』
バブル景気がはじまったのは1985年からで、70年前は1915年、ちょうど第一次世界大戦の真っ最中。
日本にはイギリスやロシアといった国々から次々と軍需品の注文が舞い込み、未曾有の好景気を迎えることになった。
しかし、この大戦景気も5年後の1920年、第一次世界大戦の終結後に一変。
株価が大暴落し、銀行や企業が相次いで倒産する戦後恐慌(昭和恐慌)が起こったのである。
2022―これから10年、活躍できる人の条件 (PHPビジネス新書)/神田 昌典
¥882
◆神田昌典氏の書籍『2022 これから10年活躍できる人の条件』には『歴史は70年周期で巡っている。』という見解をもとにして
これからの大きな時代のトレンド予測が書かれています。
・明治維新終結が1877年、
・太平洋戦争終結が1945年、
・日本でバブル景気が終ったのは1990年。
『神田氏の予測では、次なる変化は2015年。』
つまり私たちが新たな歴史サイクルのはじまりを目撃する日は、すぐ目の前まで迫ってきている。
2015年の大変革に向けては、誰もが準備しておかなければならない。
こういうとき、起こることは大富豪が大貧民になるというトランプゲームのごとく、社会がリシャッフルされるのである。
・70年前であれば、東京裁判、公職追放、財閥解体で、ときの権力者が突如として、悪者に変わった。
・140年前であれば、英雄・西郷隆盛をはじめとした薩軍、5千余人が討たれた。
◆つまり時代が変わるときには、突如として
●英雄が、戦犯になる。
●出世街道にいた人たちが、職を失う。
●輝いていた職業が、軽蔑されるようになる。
2006年には、村上ファンド事件、ライブドアショックがあり、当時、英雄だった経営者たちが次から次へ逮捕された。
拝金主義が、急速に色褪せた。
多くの人は、2009年の民主党による政権交代、2011年の東日本大震災を経験して、日本はすでに新しい時代に入ったという印象を持つかもしれない。
しかし、時代の流れを見る限りにおいては、まだ序の口。
これから、本番が始まるのである。
◆『これからますます経済は悪化する』
しかし、だからこそ、その中に大きなビジネスチャンスがある。
神田氏いわく、
「例えば乾電池や電球は、成熟商品で、今後爆発的に売れることは絶対にない!
と言われていた。しかし、震災後、乾電池は爆発的に売れ、LED照明は、一大成長産業となっている」
「なぜ数年前までは、どんなに頑張っても売れなかったものが、いまは売れないものはないほどになってきているのか?」
この答えは、明らかだった。
「新しい時代に、シフトしはじめたからだ。
時代が動くということは、いままでの日常との間に、ギャップが生まれるということである。
そしてギャップが大きければ大きいほど、そこには大きなニーズが生まれる」
◆『変化は不連続だ!』
そして、大きな変化は一夜にして起こる。
つまり、昨日と今日は連続していない。地面に深い谷が出来るようなものだ。
変化を乗り切るには、その深い谷間を飛び越えなければならない。
飛び越えるには、『重い大きな荷物』を捨て、身軽になることが必要だ。
『重い大きな荷物』とは、今まで後生大事に抱えていた常識や、思い込みや、とらわれ、といった価値観のことだ。
時代はますます混迷を深め、もっと大きく変化する。
だからこそ、そこにある大きなチャンスに気づきたい。
日本人の成功法則/神田昌典
¥1,575
◆上智大学の名誉教授で書籍『日本人の成功法則』を神田氏と共に著わされた渡辺昇一名誉教授は、雑誌『ゆほびか』の取材で80歳になって、戦争や大地震、恐慌という様々な出来事を人生で経験してきて思う事は・・・。
大きな時代の変化のなかで
「望んだ人生を歩んできた人」と「そうではなかった人」の違いは、ひとえに、人生にはっきりしたビジョンをもちつづけていたかどうか?
だと語られていました。
どんなに、環境や時代などの予件がかわっても
『環境の変化に振り回される「環境の奴隷」になるか?それとも自らの望んだ環境を創っていく、つまり自分自身が「運命の創造者」になるのか?』
は本人次第であるということなのですね。
◆中国では『ラストエンペラー』の時代に続きこの後1966年から『文化大改革』が始まる。
※以下ウイキティーペディア(2012年1月31日より抜粋)
『文化大革命』は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続いた、
「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」
という名目で行われた改革運動。
略称は文革(ぶんかく)。無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう。
政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動という名目で開始されたものの、実質的には大躍進政策の失政によって政権中枢から失脚していた毛沢東。
この毛沢東が中国共産党指導部内の実権派による修正主義の伸長に対して、自身の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)として展開された。
党の権力者や知識人だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出したほか、1億人近くが何らかの被害を被り、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたすこととなった。
◆犠牲者数については、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議においては「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている。
しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でもおよそ数百万人から1000万人以上と諸説ある。
『文化大革命の背景』
1966年から10年にわたって吹き荒れた中華人民共和国の政治混乱の背景には、
・1949年の中華人民共和国の建国以来の社会主義建設が不調であったこと
・建国の指導者毛沢東が大躍進政策の失敗により政治的に失脚していたこと
・中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立
など、さまざまな原因が考えられる。
文化大革命のきっかけとなったのは毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目的として林彪に与えた指示であり、これに基づいて林彪が主導して開始されたとされている。
◆その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、林彪による毛沢東暗殺未遂事件が発生(林彪事件)。
林彪は国外逃亡を試みて事故死するが、彼の死後も「四人組」を中心として、毛沢東思想に基づく独自の社会主義国家建設を目指し、文化大革命が進められた。
しかしながら、実質的には中国共産党指導部内の大規模な権力闘争であり、これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展していった。
文化大革命においては、まず共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。
その後、弾圧の対象は中国共産党員にもおよび、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。
◆中華人民共和国での思想統制は1949年の建国前後にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。
・1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。
・1966年5月、北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。
・1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議(第8期11中全会)での
「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」
(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。
◆『林彪の煽動』
8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らにより「中央文化革命小組」が結成されて取って代わった。
文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。
その報告には、党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。
(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。
これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命であり今後とも何度も行われねばならない
と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。
◆なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。
毛沢東はのちに
「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」
とのアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーの問いに対し、
「1965年12月であった」
と答えている。
『紅衛兵の結成』
毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。
文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、実権派に対して毛沢東自身が仕掛けた奪権闘争という側面もある。
特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた「五人組」であったとする見方もある。
◆原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
しかし次第に毛沢東思想を権威として暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり、1968年以後、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送が開始された(上山下郷運動、一般的には下放と呼ばれる)。
紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしている。
◆『実権派打倒』
「実権派(「走資派」とも呼ばれた)」と目された鄧小平や劉少奇などの同調者、彭徳懐・賀竜らの反林彪派の軍長老に対しては、紅衛兵らによって徹底的な中傷キャンペーンが行われた。
批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。
実権派とされた者は三角帽子をかぶらされ町を引き回されるなどした。
吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉晗、儲安平などは自ら命を断った。
また、劉少奇や彭徳懐をはじめとする多くの人物が、迫害の末にまともな治療も受けられないまま「病死」していった。
◆『革命委員会』
実権派(走資派)らを打倒するために文革派(造反派)らによって全国各地に「革命委員会」が成立した。
これにより地方の省、自治区、市などの地方機関や地方の党機関から革命委員会に権力が移譲されていったが、上海市や武漢市など一部の地方では実権派と文革派との間で奪権闘争と呼ばれる衝突事件も発生した。
『殺戮と弾圧』
文化大革命中、各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。
またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。
特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
内モンゴル自治区においても権力闘争に起因し多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起こったほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮した。
◆毛沢東の1927年に記した『革命』は
『客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。「革命」は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。』
という言葉が『毛主席語録』に掲載され、スローガンとなって、多くの人々が暴力に走った。
だが、中華人民共和国政府はこの事に対する明確な説明あるいは謝罪を行っていない(1996年に中国中央電視台が文革を反省する特別番組を放送している)。
◆『林彪事件』
林彪は1966年の8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、単独の副主席となった。
さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。
しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。
1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。
さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
1971年9月に、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に林彪とその一派が毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。
◆林彪は、1971年9月13日に、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。
燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、人民解放軍に地対空ミサイルで撃墜された説がある。
なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は
「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い」
と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。
死後の1973年に党籍剥奪され、批林批孔運動が起こされる。
◆『批林批孔運動』
1973年8月から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動。
中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とする。
こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた
※以下には竹内実
『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる
<善人>
少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。
<悪人>
孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。
◆「儒法闘争」
1975年、民衆に根強い人気のあった水滸伝について、当初の首領である晁蓋を毛沢東は自らと重ね合わせ、晁盖が途中で死亡し、後を継いだ宋江が朝廷に投降したストーリーを批判した。
司馬遼太郎が行った現地リポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。
幼少の頃に『文化大革命』に遭遇し、後に日本に帰化した石平は、
「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界で屈指の拝金主義が跋扈するようになった」
と批判している。
◆『水滸伝批判』
さらに、四人組は鄧小平を宋江に比定し、「水滸伝批判」を鄧小平攻撃に用いた。
この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者に止まった。
武則天が善人の中に入っているのは江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。
※ウイキティーペディア(文化大革命)はこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD
◆映画『ラストエンペラー』のメインキャストである溥儀の青年時以降の役は、香港生まれの中国系アメリカ人俳優のジョン・ローンが演じた。
1987年度のアカデミー賞では『恋の手ほどき』以来となる、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全てでの受賞を達成した。
特に日本においては、溥儀や満州国という日本人にとって非常に近い題材を描いた内容であったことで幅広い年齢層を引きつけたことと、高松英郎や立花ハジメなどの日本人俳優が多く出演し、
さらに甘粕正彦役兼音楽プロデューサーとして参加した坂本龍一が、日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞したことなど、様々な要因が大ヒットに繋がった。
なお、日本での劇場公開に際しては、溥儀が南京事件の映像を見せられるシーンを、配給元がベルトルッチ監督に無断でカットした。そのためベルトルッチ監督から抗議され、後にそのシーンを復活させた。
※お薦めDVD『ラストエンペラー』はこちら!
ラストエンペラー ディレクターズ・カット (初回生産限定版) [DVD]/ジョン・ローン,ピーター・オトゥール,ジョアン・チェン
¥3,990
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<魔法のレシピ>
■『変化は不連続だ!』
大きな変化は一夜にして起こる!
■ 時代が変わるときには、突如として
・英雄が、戦犯になる可能性がある
・出世街道にいた人たちが、職を失う可能性がある
・輝いていた職業が、軽蔑されるようになる可能性がある
■楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に行動せよ
京セラ、KDDI,JAL 稲森和夫会長
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<さくらのB級グルメ> ★★★★★ ★★★
青葉台の『梅の花』でランチをご馳走になりました。
個室で落ち着いた雰囲気でゆっくりと食事をすることができます。
どれも美味しく大満足でした。
豆腐・湯葉のお店です。
◆『梅の花善』
・嶺岡豆腐
・お浸し
・湯葉煮
・茶碗蒸し
・お造り
・名物 とうふしゅうまい
・おしのぎ
・湯豆腐
・生麩田楽
・湯葉揚げ
・湯葉グラタン
・湯葉吸物
・飯物
・香の物
・デザート
◆『しあわせ膳』
・おから生野菜添え
・茶碗蒸し
・手桶湯葉
・湯葉豆腐とたぐり湯葉のお造り
・湯葉の小袖寿司
・ふく福豆冨 二色あん掛け(野菜あん・麻婆あん)
・豆腐の溶岩焼き
・海老真丈の湯葉包み揚げ
・湯葉吸物
・飯物、香の物、デザート
店内は清掃が行き届いており店員さんの接客も感じよくしっかりされておりました。
◆青葉台『梅の花』はこちら
https://r.gnavi.co.jp/g083307/
有難うございます。