サッカーワールドカップで1次リーグを突破した日本代表チームが帰国しました。
岡田監督は
「選手達が、自分たちで考え一戦一戦と成長してくれた。」
と話されていました。
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<魔法のレシピ>
人が成長する環境をつくろう
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◆岡田監督は大阪府の出身でマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年、早稲田大学政治経済学部卒業と同時に古河電工に入社。
社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。
大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍し1986年のアジアクラブ選手権優勝にも貢献しました。
◆また1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会にA代表として出場。
実は当初発表された代表メンバーに岡田選手の名は無かったのですが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集されました。
このときの岡田選手の背番号は前田の9をそのまま背負います。
この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田選手自身は2試合に起用され、1次リーグの対韓国代表では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めています。
◆その後も日本代表に選出され続け、ロサンゼルス五輪予選、メキシコワールドカップ予選などに出場。
最終的に国際Aマッチのキャップは21を数えます。
1990年の時には34歳と、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田選手の転機となった試合が、古河電工がバイエルン・ミュンヘンと行った親善試合です。
その向上心の強さ、現役続行への固い意志は衰えることなく、この試合でも活躍した岡田選手でしたが試合は善戦の末1-2で破れます。
◆「海外トップチームとの対戦」を通じてその埋めがたい差を身を以て実感した岡田選手は現役引退を決意。
指導者として
「日本人がこのような海外のチームを相手にどうしたら勝てるようになるのか」
と模索し続ける現在の彼のスタートラインともなりました。
◆古河電工のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせた彼は1992年にドイツへとコーチ留学します。
1993年に帰国後はJリーグ発足に沸く日本サッカー界に戻り古巣・古河が母体となったジェフ市原でコーチを務めます。
◆1995年にはサッカー日本代表コーチに抜擢されます。
岡田監督の一大転機は1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周監督が更迭された事から始まります。
岡田監督は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名されます。
◆最初の1試合を乗り切った岡田は監督へと昇格を果たしたものの、当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていましたが加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返します。
最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たしました(ジョホールバルの歓喜)。
◆岡田監督はこの歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命されます。
1998年の本戦直前に不振だった三浦知良や北澤豪をメンバーから外した事では当時その是非が議論を呼びました。
本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明しましたが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。
大会終了後のテクニカルリポート作成を最後の仕事とし代表監督を退任しました。
◆監督退任後、半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユベントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受けます。
また後に横浜FMにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなりました。
1999年にJ2に降格したコンサドーレ札幌の監督に就任。
自身初となるJリーグの監督として、さらに前・日本代表監督ということもあり注目度・期待度が高かったが就任1年目は5位に終わりました。
しかし自身の発想の転換以外にもチームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。
スカウティングも自分で行いました。
2年目の2000年にはこれらの努力が結実し、圧倒的な強さでJ2優勝を果たします。
チームとしても初のJ1、自らも監督として初のJ1となった2001年は年間11位の成績を収めてJ1残留に成功。
◆ここを区切りに監督を辞任し、解説者の視点からサッカーを見つめなおすこととなります。
札幌を指揮した期間にエメルソンや播戸竜二、山瀬功治、今野泰幸など若く有能な選手を発掘・起用しました。
さらにこの年、当時J2だった大分トリニータから獲得したウィル(24得点)が得点王に輝くなど、監督としての才能を十分発揮させた。
2002年はサッカー解説者として活動。
FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、フィリップ・トルシエ退任後の次期日本代表監督候補にも噂されます。
◆2003年、横浜F・マリノス監督に就任。Jリーグで常勝チームとなりえる規模を持つクラブの監督就任は彼の念願でした。
充実した戦力を率いた1年目の1stステージからいきなり優勝を飾り、その余勢を駆って2ndステージも優勝。
就任1年目にして完全優勝の栄冠を手にしました。
2004年も1stステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げます。
浦和レッドダイヤモンズと争ったサントリーチャンピオンシップでは1勝1敗で迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝きました。
◆2005年も優勝候補の一角に挙げられていたがましたが、AFCチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。
結局、9位という期待外れの成績に終わります。
成績低迷の責任を取り監督を辞任するとの観測も流れる中、2006年以降も横浜FMで監督を続投することが公式に発表されました。
復活を期して臨んだ2006年は開幕4連勝を飾ったものの、その後急激にチームコンディションが悪化。
再浮上の切っ掛けが掴めないまま18節終了時点で自力優勝が消滅し、19節の大宮戦終了後に辞意を表明。
◆日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっていた中、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院し、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になり、小野剛日本サッカー協会技術委員長(当時)から後継監督として打診を受けます。
オシムが築いてきた土台の上に新しい色、個性を積み上げられる、強烈なリーダーシップ、求心力を持っている、翌年2月6日の予選まで与えられた時間が少ないためにコミュニケーション能力がある監督としての3点を挙げています。
2007年12月7日、日本代表監督再就任が当時日本サッカー協会会長だった川淵三郎(現同協会名誉会長)によって正式に発表され、2008年から指揮を執るようになりました。
◆なお、ワールドカップで通算成績が0勝3敗の監督が再度同じ国の代表監督をするのは史上初でした。
前回の在任時はコーチ陣と同じジャージ姿での采配が話題となっていましたが、再就任後は犬飼基昭現日本サッカー協会会長(2008年7月12日に会長就任)の指示でスーツ姿で指揮を執るようになっています。
◆2009年6月6日、W杯南アフリカ大会アジア最終予選の第6戦。
アウェーでのウズベキスタン戦を1-0で勝利。グループAにおいてオーストラリア代表に次ぐ2位通過とし、日本代表を4大会連続4度目の本大会出場決定に導くきますが、この試合の終了直前に審判に異議唱えたとして監督生活初の退席処分を受けました。
国内組で臨んだ2010年東アジア選手権では4チーム中で3位、その後同年4月7日のキリンチャレンジ杯セルビア代表戦では0-3で敗れ、4月26日にサポーターから日本サッカー協会へおよそ1000人による解任の署名が提出されました。
◆また、5月24日に行われたキリンチャレンジ杯の韓国代表戦に0-2で敗退した後に、犬飼基昭日本サッカー協会会長に対して「進退伺い」ともとれる発言をしたとされることや、5月30日のイングランド戦にも敗退し、6月4日のコートジボワール代表戦まで4連敗を喫し決定力の低さを解消できないことなどを受けて、国内のサポーターやマスコミからは岡田の監督連投や選手の起用法に批判が集中し、ヤフーが行ったインターネット調査ではサポーターからの支持率がわずか16%という低さでした。
◆ワールドカップ中の解任すらマスコミ上で取り沙汰されました。
岡田監督は今大会における目標を「ベスト4入り」と表明したものの、その目標そのものすら「非現実的」だとして国内外のマスコミに酷評され続けたほか、グループリーグの対戦相手発表を受けて、セルジオ越後や釜本邦茂、杉山茂樹などのサッカー評論家がグループリーグで1勝もせぬままの予選敗退を予想するなど、サポーターやマスコミに渦巻く岡田に対する不信感と低評価の中ワールドカップ本戦に臨みました。
◆しかし、格上と見られていたカメルーン代表と6月14日に行われた初戦では、前半に入れた1点を堅い守備で守り切り1-0で勝利しました。
なおこの勝利は、サッカー日本代表の日本人監督として国外で開催されるW杯本戦における初勝利ででした。
その後6月19日に行われたオランダ代表との第2戦には0-1で負けたものの、6月24日に行われたデンマーク代表との第3戦では、前半に先制2点を入れた後も終始リードを保ったまま3-1で勝利を収めグループリーグを2勝1敗の勝ち点6とし、自国開催大会以外としては初のワールドカップ決勝トーナメント初進出を果たしました。
◆このサポーターやマスコミの多くが予想していなかった快進撃に、国内外のマスコミはこれまでの批判的な姿勢を一転し、岡田の采配を絶賛する論調ばかりとなっただけでなく、予選ラウンドにおける日本代表の堅い守りを、イタリア代表の「カテナチオ」をもじって「オカナチオ」と呼ぶ記事すら現れました。
さらにインターネット掲示板やツイッター上を中心に、かつて岡田に対する非難や不信感を表明していた者からの岡田に対する「謝罪」の表明が相次ぐ事態となりました。
◆自国開催大会以外としては初のワールドカップ決勝トーナメント初進出となり、日本サッカー界史上初のベスト8進出をかけたパラグアイ代表との戦いでは、90分では決着がつかず0-0のまま延長戦に突入しました。
しかし延長戦でも決着がつかず、日本代表史上初めてのワールドカップでのPK戦に突入したものの結果的に3-5で敗北しました。
しかし日本代表として様々な記録を作ったチームを作り上げた手腕に対し、開幕前との評価とは一転して「名将」、「感謝」と称賛する評価が相次いだ他日本代表監督の続投を望む声も出たものの、試合後の会見で今大会を最後に退任する意向を表明しまし。
また、一部ネットニュースでは人望の厚さや人脈の豊富さから「将来の日本サッカー協会会長へ」という声まで出ています。
◆さくらは、岡田監督が横浜マリノスの監督をしていたときに岡田監督のお話しをお聞きしたことがあります。
そのとき岡田監督は教えてくださいました。
『選手を監督が引き上げたら駄目だよ。そんなことをしたら後で必ず落ちてゆくから。
だから選手が自ら這い上がってくるように指導するんだ。プロだからね。』
◆そのとき
「岡田監督は、監督として、選手の起用などで、迷ったり悩んだり難しいことはないのですか?」
と質問してみると・・・
「選手はプロだから、それはないですね。」
「ただし、日本代表の監督は、家族まで批判に巻き込まれることがあるから厳しいこともあるよね。」
と笑いながら仰られていました。
◆いいときも、悪いときも、廻りの批判や中傷に流されず・・・
目標の達成に向かい、たんたんと歩き続け本物の勝負師の大きな温かい心を教えてくださった岡田監督。
本当に有難うございます。感謝しています。
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<魔法のレシピ>
■ 人が自ら成長するように指導しよう
■ 環境に流されず自分の仕事を高めつづけよう
■ ついてるひとは、どこまでいっても、ついている
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<さくらのB級ぐるめ>★★★★
新宿NSビルにあるラパウザにきました。
さくらはこのお店で、東京タワーやパークハイアットなど東京という美しい都市の夜景を眺めながらワインを飲み、友人と語り合うのが大好きですd(*⌒▽⌒*)b
今日は生パスタのナスとトマトをいただきましたが・・・これが、しこしこしていて本当に美味しかったです。
ポテトサラダも新鮮でボリュームがあり血液が綺麗になる感じがします。
ピザはマルゲリータピザの(S)が390円ですが食べ応えは充分になります(*^ー^)/▼☆▼ヽ(^ー^*)
◆ちなみに「ラ・パウザ」とはイタリア語で休み時間のこと。
ほっと一息つきたいときに気軽に入れるイタリアンレストランです。
☆(*^o^)乂(^-^*)☆
アルデンテの茹で上げパスタと石釜で焼き上げた手作りピッツァなどの、本格的な料理をリーズナブルなお値段楽しめます。
二人で美味しくお腹一杯に楽しい時間をすごして3000円くらいですd(-_^)good!!
有難うございます。