目的をもって経験から学び、歴史から学ぼう 映画『サッチャー 鉄の女の涙』より

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機能不全に陥っていた英国(イギリス)を叩き直すべく大鉈をふるい“鉄の女”の異名をとったマーガレット・サッチャー元英国首相。

歴史にその名を刻む強靱な彼女が認知症を患っている事が公にされました。

妻であり母であるひとりの女性であるマーガレット・サッチャーを普遍的な物語として、脚本家アビ・モーガンが書き上げた

映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(原題: The Iron Lady)をDVDで観ました。

 

映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を見て領土問題について歴史からその本質と、その選択の及ぼす影響と、その責任について学び

相互依存の世界で、より良き状態を築いていくための資料としてより多くの人に知っていただきたく、映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のあらすじと、フォークランド紛争についてウィキペディアより引用させていただきました。

※お薦め映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』はこちら!

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■豊かさを創る質問■

・あなたは、目的をもって経験から学んでますか?

・あなたは、目的をもって歴史から学んでいますか?

・あなたは、一歩先まで考えて『楽しい道』を選択していますか?

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<卓越のレシピ>

目的をもって経験から学び、歴史から学ぼう!

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ここからは映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(原題: The Iron Lady)の「あらすじ」になります。

ネタバレがありますが、より深く内容を理解したい方にはお薦めかもしれません。

◆雑貨商の家に生まれたマーガレット・サッチャー(メリル・ストリープ)は、市長も務めた父の影響で政治を志すが、初めての下院議員選挙に落選してしまう。

失望する彼女に心優しい事業家デニス・サッチャー(ジム・ブロードベント)がプロポーズする。

「私は食器を洗って一生を終えるつもりはない!」と野心を隠さないマーガレット・サッチャーを、デニスは寛容に受け入れる。

双子にも恵まれ、幸せな家族を築く一方で、マーガレット・サッチャーは政治家としての階段も昇りはじめる。

◆そして失墜した英国を再建する。

それは気の遠くなるような闘いだったが、彼女はその困難に立ち向かう。

愛する夫や子供たちとの時間を犠牲にし、マーガレット・サッチャーは深い孤独を抱えたまま一人で闘い続けた。

どんなに苦しい時も支え続けてくれた夫・デニスは既に他界した。

だが、マーガレット・サッチャーは未だに夫の死を認識していないのか、時折不可解な行動が目立つ。

思い出の洪水の中で、デニスの遺品を手に取りマーガレット・サッチャーは「あなたは幸せだった?」とつぶやくのだった。

◆ 映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(原題: The Iron Lady)は1982年の『フォークランド紛争』に至るまでの17日間をマーガレット・サッチャーの回想を挟みながらかれています。

政界引退後、認知症を患うマーガレット・サッチャーの実生活と重ね合わせながら、彼女がこれまで辿ってきた政治家、妻としての半生を振り返る構成で物語が進んでいきます。

既に死亡済みの夫デニスが幻覚としてマーガレット・サッチャー と生活を共にしているという設定であり、彼とのやり取りの中で、政治家としての生活を優先するあまり、妻として母としての役割を放棄して来た葛藤も描かれています。

◆反面、サッチャーの子供達との描写はあまり多くなく、成人後の子供は娘のキャロルのみ登場し、息子のマークは登場しない。

政治活動としてはヒース内閣での教育相時代を経て、経済の建て直しの為の国営化政策の撤廃、頻発する暴動への妥協しない対決、『フォークランド紛争』勃発当初のアメリカ側の慎重論の拒否等も描かれている。

人頭税導入を強硬しようとして政界を去る部分については国民の反発というより、保守党内部での孤立と造反が主な原因であるかのように描写されている。

なお劇中何度か登場する暴動シーンには本物の労働争議での記録映像が使用されている。

◆マーガレット・サッチャーが主治医に話した言葉が印象に残りました。

人は感情にばかり、氣を配っているわ!
私がいっている内容のほうがよっぽど面白いのに!

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

思考がたいせつなのよ!

 

◆『TVのニュース』

「最初に、マーガレット・サッチャー首相を『鉄の女』と読んだのはソ連ですが、アメリカのレーガン大統領との盟友で、冷戦の終結にも大きく貢献しました。

・英国官僚:
英国の財政再建にも大きく貢献しましたが、失業者を増やした!

お前は母親ではなく、モンスターだ!と非難されました!

国民の生活の実態を把握していません!

・サッチャー首相:
私は、バターの値段から、ミルクの値段も、いくらか?答えられるわ! 

・英国官僚:
サッチャーは、元雑貨屋の娘だから、それくらいわかる!

「これでは勤勉な労働者が生活できません!」

・サッチャー首相:

皆さん! 支出を削減しないと、国は破綻するのよ!
病気なのに薬をださないで、患者を殺すわけにはいかないわ!!

この偉大な英国を救う為に、我々は選挙に勝ち抜いてきたのよ!
今更、怖じ気づいてどうするの?

正しいと信じたことを貫かなかったらどうするの?

◆英国官僚:
『サッチャー首相! フォークランド諸島で問題が起きました!』

サッチャー首相:
私は、テロやゴロツキには従いません!

フォークランド諸島は英国領です!
英国領を取り戻します。

それは可能ですか?

英国官僚:
「可能です。しかし、すぐに出動する必要があります」

◆『フォークランド紛争』 仲介に入ったアメリカとの交渉で・・・。

・アメリカ外相:
サッチャー首相! 戦争はさけるべきです!

・サッチャー首相:
アメリカは、ハワイの真珠湾が日本に攻撃されたときにアメリカから遠く離れている領土だからといって、そのまま日本の東条と和平を結びましたか? 

今回の英国も同じです。

・アメリカ外相
お言葉ですがサッチャー首相! 私は戦争の経験者です。

・サッチャー首相:
私はいつも戦ってきました。
男性の言葉とも戦ってここまできたわ!

信条を貫けるかどうか?その姿勢が問われているのです!
相手は最後には必ず、後悔するでしょう!

 

◆『英国がフォークランド紛争に勝利して・・・。』

サッチャー首相:
フォークランドで亡くなった英国兵士の死は無駄にしません。
私も息子をもつ母親として、ご遺族の悲しみは察するにあまりあるものです。

・サッチャー首相:
我々は、英国軍をたたえます。
侵略にたいして、たとえ大きな犠牲をともなっても「善」が「悪」を倒して勝利したことを!

野党の皆さん!
今日はあら探しをすることをやめましょう!

今日だけは英国人であることを誇りましょう!
さすが我々の首相だ!!!!

デニス・サッチャー(夫):
英国は見事に復活を遂げた!

やったな!マーガレット!
史上、一番憎まれた首相から、支持率が急回復した。

◆英国官僚:
サッチャー首相! 
億万長者と、庶民から同じ「人頭税」をとるのは反対です。
不公平です!

サッチャー首相:
何故ですか?
この国に住んでいて、この国の特権を受けるのだから、当然ではないの?

問題は何でもかんでも奪ってなにもしない怠け者です。
私は戦って、ここまで這い上がってきたのです!

このなかにも英国の人頭税が嫌な方がいるようですね。
もしよければ!フランスにいって85%の税率を払ったらどうですか?

◆TVニュース:
今やこの英国は、2つに別れています!

「職をもつ者」と、「職をもたない者」です。
内閣総辞職しろ!という声がありますが・・・。

サッチャー首相:
『我々は屈しません!この国の繁栄を取り戻してみせます!』

TVニュース:
テロ、テロ、テロ!!

サッチャー首相:
『もう、自分が、自分がわからない!』

サッチャーと同じ党の政治家達:
サッチャー、あの独裁者ではダメだ、これでは次の選挙に勝てない!
まずは「党」のことを考えよう!

◆首相辞任後のマーガレット・サッチャー:
裏切り者!

マーガレット・サッチャー:
「私は誇りに思います。
私が英国の首相就任当時よりも英国がよくなったことを」

マーガレット・サッチャー:夫のデニスに・・・。
苦渋の決断を下すと!そのときは国民に嫌われても何世代にもわって感謝されるのよ!

デニス・サッチャー(夫):
「・・・あるいは、忘れ去られる!」

マーガレット・サッチャー:
デニス!
私はただ社会に貢献したかっただけ!

そして子供達が立派に育ち、幸せになってほしかった。
もちろん私より幸せにね!

あなたにも幸せになって欲しかった!
デニス幸せにだった? ねぇ正直に言って!

ここからは、
映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』
(原題: The Iron Lady)をお楽しみください!

◆『フォークランド紛争』
(英語: Falklands Conflict/Crisis)とは?

※ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/フォークランド紛争

フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。

スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争」と表記されることが多い。

日本語の教材や辞典では「フォークランド紛争」と表記されることが多いが、世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられることが多い。

ただし、イギリス陸軍のウェブサイトでは「Falklands Conflict」の語を用いている。

 

◆『フォークランド紛争』の概要

フォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。

両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。

また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。

◆アルゼンチン軍の攻撃によりイギリス軍は多数の艦船と乗組員を失い、戦争中のイギリス軍の艦艇の損失はアルゼンチン軍のそれを大きく上回ったが揚陸作戦を成功させ、経験の豊富な地上軍による陸戦や長距離爆撃機による空爆、同盟国であるアメリカ軍の援助を得た情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を収めた。

アルゼンチン軍は果敢な航空攻撃によりイギリス海軍艦艇に大きな損害を与えたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、また一部で頑強な抵抗を示したものの経験豊富なイギリス地上部隊に対抗できず、降伏に至った。

◆『アルゼンチン情勢』

アルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後(1945年後)は国際連合を通じた交渉で穏健策をとり、

1960年代以降にはイギリスの維持能力を超えていたこの諸島に様々な行政、医療サービスを行いながら、イギリスに対して「フォークランド諸島の返還」を求め続けていた。

これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、1982年からアルゼンチンはあくまで無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどり難航していた。

◆アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者の大統領フアン・ペロンのポプリスモ政策によって経済は安定した。

この期間、資本を競争力向上に向けず、モノカルチャー政策に甘んじたため、外貨の源であった農産物は、市場であったアメリカ、カナダの農業の生産性向上により、次第に競争力を失っていた。

アルゼンチンは財政や宗教政策での失敗も重なり、保守派と結託した軍のクーデターでペロンが追放される。

するとペロン派(ペロニスタ)や、その流れを汲む都市ゲリラ(モントネーロスやペロニスタ武装軍団など)と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が、天文学的なインフレと失業を招く。

牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れていた。

◆1976年にイサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めてペロニスタや左翼を徹底的に弾圧した。

この「汚い戦争」で8,000人から30,000人が「行方不明」(実際は治安部隊に暗殺されたが、事件そのものが「存在しないこと」とされ、統計上行方不明になった)になったといわれる。

このようにして行方不明になった人間には当然テロやゲリラや左翼と無関係の市民も大勢いた。

そして経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。

◆軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。

だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。

既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。

 

◆『イギリス情勢』

第二次世界大戦においてイギリスは国力を消耗し、長引く不況や硬直した政治、社会制度による深刻な財政難に悩まされていた。

ほとんどの植民地や海外領土を手放さざるを得なかったこともあり、「陽の落ちることが無い」とまで言われたかつての大英帝国はこの頃には跡形も無く、イギリス本国は英国病から抜け出せずにイギリス連邦がその役割を引き継いでいた。

※参考※
第二次世界大戦(英語: World War II、ドイツ語)は

1939年から1945年の6年にかけ
・ドイツ、イタリア、日本の三国同盟を中心とする枢軸国陣営と
・イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争。
 1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、仏英による対独宣戦布告とともにヨーロッパ戦争として始まり、1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大した。

◆大戦後にイギリスが手放さずに済んだ海外領土の一つである「フォークランド諸島」は、

イギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、フォークランド諸島民は二等市民として扱われて、本土との定期航空便もないなど本国からあまり面倒を見られていなかった。

そのためアルゼンチンからの医療などにおける様々な援助のおかげでどうにか維持されていたような状態だった。

このように島自体の経済的価値は相対的に低かったものの、フォークランド諸島は冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として非常に重要な位置を占めていた。

パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としても価値がにわかに高まっていた。

◆保守党はエドワード・ヒースが政権を握っていた頃、1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、それ以上の実質的な進展はアルゼンチン側が主権問題を取り上げて拒んだ。

当時の国務大臣であるニック・ヒドリーによって提案された
「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」
というリースバック案があったものの、すでにイギリス人入植者が多数を占めていたフォークランド諸島の住民の意向に沿ったものではなかったため下院で不採用が決議された。

こういった経緯を含め、国際連合憲章第1条第2項に則った人民の自決の原則を理由に、1979年にイギリス首相へ就任したマーガレット・サッチャーはあくまでフォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた。

◆『アルゼンチンとイギリスの衝突』

その後1982年に、アルゼンチンで民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が、この問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチン国内で『フォークランド諸島問題』が過熱ぎみになり、民衆の間で

「政府がやらないなら、義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しよう!」という動きにまで発展した。

◆この様な動きに対して、アルゼンチン政府は形だけの沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍艦艇がフォークランド諸島の東約1000kmにある同じくイギリス領となっていたサウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せた。

これにたいしてイギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに3月28日にアメリカの国務長官であるアレクサンダー・ヘイグに圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。

◆当初アルゼンチンでは、ガルチェリの思惑通り事は進み、大統領官邸前には大統領の決定を支持する民衆で埋め尽くされた。

3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリス首相のサッチャーはアメリカ大統領のロナルド・レーガンに事態収拾への仲介を要請し、閣議を招集して機動部隊の編成が命じられた。

しかし、翌2日にはアルゼンチンの陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。

◆4月2日にイギリス下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を中核とする第一陣が出撃した。

到着までの間、アメリカ国務長官や外相フランシス・ピムのシャトル外交により事態の打開が模索されていたが、イギリス側は同諸島の統治が島民の意思を尊重することであったのに対し、

アルゼンチン側は同諸島での現地統治とその参政権をアルゼンチン島民にも与えることであった。

また、排他海域の設定やフォークランドへ向かっているイギリスの機動部隊を停止するなど撤退に関することも協定案としてやり取りがあったものの、24日にアルゼンチンの協定案ではイギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないようにした文章が含まれていたことから、

イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的であることや、外交を時間稼ぎに使われているのではないかという懸念を持った。

◆25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島にイギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。

その後も国連で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンにサッチャーは、「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。

アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、地の利を生かして当初は有利に戦いを進めたものの、

イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力とアメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。

同諸島最大の都市である東フォークランド島のポート・スタンレーを包囲し、14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。

戦闘は終結した。

※ウィキペディアより

http://ja.wikipedia.org/wiki/フォークランド紛争

◆『フォークランド紛争』戦後

・『アルゼンチンの戦後』

アルゼンチンでは、ガルチェリが建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。

退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、

「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。

ガルチェリは「銃殺刑に値する」と言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。

◆アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。

なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還された。

この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。

一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、
・開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は
・2000年には三軍で7万1000人程になっている。

◆『イギリスの戦後』

多くの艦艇を失い、多数の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャーの人気が急上昇した。

それまで不人気だったサッチャーは続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。

自国の領有権を主張するアルゼンチン、エントレ・リオス州の看板また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。

紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ空軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している)。

◆『フォークランド紛争』戦後の両国関係

その後しばらく、アルゼンチンとイギリスの国交断絶状態が続いた。

※そんな中、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝で、サッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりサッカーイングランド代表に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた。(1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランド)

1989年10月に、アルゼンチンとイギリスは『フォークランド紛争』開戦(1982年)以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。

しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。

◆ マーガレット・ヒルダ・サッチャー
英国首相1979年5月4日 – 1990年11月28日

※ウィキペディアより

http://ja.wikipedia.org/wiki/マーガレット・サッチャー

『英国首相』

1979年の選挙ではイギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。

なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し実施したと推測されている。

ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった。

◆1979年の選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。

イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。

こうした経済に対する思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、

理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。

◆1982年には、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発。

アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させアルゼンチン軍を放逐した。

サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還はイギリス国民からの評価が極めて高い。この際

「人命に代えてでも、我が英国領土を守らなければならない。
     なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである!」

(領土とは、国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。

◆イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後

「我々は決して後戻りしないのです!」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。

フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利しこれをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。

1984年10月12日保守党党大会開催中のブライトンで、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。

議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。

◆1986年のコモンウェルスゲームズ大会では、サッチャー政権の南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議した32ヶ国が大会をボイコットした。

イギリス連邦に属する国や地域がアパルトヘイト廃止のために経済制裁を支持していたが、サッチャー政権はイギリスの貿易と経済への影響を考え経済制裁には反対していた。

保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から、3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税(community charge)の導入を提唱してイギリス国民の強い反発を受けた。

◆また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したために財界からもイギリスが欧州統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、

1990年の党首選では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15%以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、結局11月22日に英国首相、保守党党首を辞職する意向を表明した。1992年からは貴族院議員を務める。

◆『サッチャリズム』

サッチャーは新自由主義に基づき、電話・ガス・空港・航空・水道等の国有企業の民営化や規制緩和、金融システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行。

さらに改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぎ所得税・法人税の大幅な税率の引き下げを実施。

一方、付加価値税(消費税)は、1979年に従来の8%から15%に引き上げられた。

◆インフレーションを抑制するためにイングランド銀行が大幅な利上げを行ったため、サッチャーの公約であったインフレの抑制には成功した。

しかしながら、首相就任から間もなくイギリスの失業者数は倍増し、1982年には300万人を上回る。

失業率は、その後も1986年半ばまで減少せずこれによりサッチャーの支持率は低下。

◆そのため小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じる。

その結果、イギリス経済は回復した。

フリードマンら新自由主義を唱える経済学者は、サッチャーの変節を非難したものの、総じてイギリス国民からはこの転換が受け入れられ、支持率も回復の兆しを見せた。(失業率は1986年以降、1990年まで減少)

◆1988年、教育法を改定。

イギリスの教育機関は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。

サッチャーは、使用されていた教科書の一つ
「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」
(イギリスの人種差別や、植民地支配の歴史を批判的に扱う内容)が自虐的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった。

◆そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、

①「全国共通のカリキュラムを作り、非キリスト教徒に対してもキリスト教の授業を必修とするなど「自虐的」内容の是正」

②「全国共通学力テストの実施」

③「学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府と共に、親の発言力を強める)」

という内容の法改正案を成立させた。

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◆納税額歴代日本一の斎藤一人さんの教えに『正しい道より、楽しい道!』というものがあります。

「人生には、いくつかの“分かれ道”というものがあるんだよ。
右に行くか、左に行くかを、判断しなければならないときがある。

そのときは、『どちらが正しいか』ということを絶対に考えたらダメだよ。

『どちらが楽しいか』を判断基準にするんだよ。

『どっちが楽しいか』ということを考えたとき楽しいほうが、成功への道だからね。

◆どんなに正しくても、楽しくない道を歩いていると、つまらない顔、つまらないアイディア、つまらない言葉、つまらない行動しかできなくなってきます。

逆に、楽しい道を歩いていると楽しい顔、楽しい考え、楽しいアイディア、楽しい言葉、楽しい行動が出来るようになってきます。

もしも道に迷った時は、一歩先まで考えて「楽しい道」のほうを選びましょう!

「楽しい道」こそが、あなたにとっての幸せの道なのだから。

成功したから楽しいんじゃないんですよ。

楽しいから成功したんですよ。

一歩先まで考えて、楽しい道を選んでゆきましょう!

※楽しい道を選ぶ!

http://senzaiishiki-training.com/?p=13674

人類の歴史を刻む、価値ある映画をありがとうございます。より良き未来のために活かして参りましょう!

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■ 一歩先まで考えて、楽しい道を選ぼう!

■ 『ミッション』を軸に「欲しい成果」と
「欲しい成果をより永続的に得続ける仕組み」を築こう!

■ 効果性を発揮する『原則』を実践しつづけよう!

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<さくらのB級グルメ>★★★★★ ★★★

お肉屋さんと八百屋さんで食材を購入して『すき焼き』をしました。

 

よくいく商店街のお肉やさんのお母さんや八百屋さんのおじさんは、いつも新鮮で美味しい食材を提供してくれます。o(*^▽^*)o!

 

今回は、近所のお肉屋さんで、すき焼き用の和牛を購入して大好きな八百屋さんで甘~いピンクグレープフルーツを6個で200円で買ってきました。

この生グレープフルーツでウオッカを割って、ブルドッグのカクテルを飲みながら、大好きなすき焼きを創ります。

 

すき焼きは、大きく分けて関西風と関東風の調理方法があるのですね。

・関西風すき焼きは牛肉や具材を「焼く」作り方ですが、
・関東風すき焼きは牛肉や具材を「煮る」作り方をします。

なぜ同じ料理なのに料理法が違うのかというと、元々関西は「すき焼き」、関東は「牛鍋」という別の料理だったようです。

それが「牛鍋」が次第に食べられなくなり関東では「すき焼き」と「牛鍋」がミックスした「煮るすき焼き」が食べられるようになったそうです。

関西の焼きながら食べるタイプのすき焼きと違い、具材を一度に料理しがちな関東風のすき焼きですが、こちらの方が作り置きが簡単だったのですね。

※材料(2人前)
・和牛        780円

・長ネギが3本    130円
・アボガド2個    130円(ワサビ醤油 おつまみ)
・白滝        100円
・白菜        100円
・厚揚げ       100円
生食用の卵 4個   150円

合計        1490円

『すき焼き』の由来は諸説あるようですが一般的に言われているのは、江戸時代の農民が農具の「鋤」(すき)の上で肉や魚を焼いて食べていたことにあるそうです。

美味しいすき焼きと、生グレープフルーツのブルドックが一人1000円以内で楽しめるのは、嬉しいことですね!

愉しいひとときを有難うございます。

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